25歳で7大陸最高峰登頂の世界最年少記録を樹立した野口健さん。
日本を代表するアルピニストです。
登山に興味がない人でも、その名前と顔は知っているのではないでしょうか。
現在、野口さんのリーダーシップは、登山以外でも発揮されています。
山の清掃や基金の立ち上げ、さらには日本各地の災害支援活動に至るまで、
およそ冒険とは縁遠いと思われる幾多の活動を、同時並行的かつ意欲的に行っています。
たくさんのプロジェクトに人を巻き込み展開できる、そのバイタリティはどこからくるのか。
それがこのインタビューで見えてきました。
野口健 7大陸最高峰登頂の世界最年少記録の歩み(赤字 が7大陸最高峰)
1990年/16歳 モンブラン登頂
1991年/17歳 キリマンジャロ登頂
1992年/19歳 コジアスコ登頂 アコンカグア登頂
1993年/19歳 アイランドピーク登頂 マッキンリー登頂
1994年/21歳 ビンソン・マッシーフ登頂
1996年/22歳 エルブルース登頂
1999年/25歳 エベレスト登頂 7大陸最高峰登頂の世界最年少記録を樹立
高校に入ってすぐ学校で喧嘩をして先輩を殴ってしまい、停学になったんです。停学期間中は1カ月間の自宅謹慎ということだったんですが、親父から「家でゴロゴロしてないでどこか行け」と言われたんです。親父はきっと、人を殴って停学になり、1カ月間も家にこもっていたらろくなことはしないと思ったんでしょうね(笑)。「とにかく、どこでもいいから知らない所に行って、朝から晩までひたすら歩け」と。それが15歳の時です。
それでまず大阪へ行きました。親戚が大阪にいたのでそこを拠点として、京都へ行ったり、奈良に行ってみたり。2週間ちょっとだったと思います。好んで歩いたのは京都の哲学の道です。ちょうど6月の梅雨時期で、あまり人もいませんでした。そうした中を歩いていると、もやっとして内側に向いていた気持ちが、表に向いて行くのを感じました。
そんな旅の中で、ふらっと入った本屋で『青春を山に賭けて』という植村直己さんの本を偶然手に取ったんです。山登りには全く興味なかったんですけど、何かピンときたところがあって。で、読んでみると、世界的な冒険をしている割には淡々とした内容で、「俺はこんなことをやってきたんだぞ!」みたいな本ではなくて、世界を放浪する旅物語だったんです。もしそれが、スーパースターの成功物語のような本だったら、僕はそれに負けていたかもしれませんね。「俺には無理だよ」って。ただ、植村さんの本を読んだ時に、僕でも何かをこつこつ続けていけば達成できるものがあるかもしれない、世界が広がるかもしれない、と思えるようになったんです。それが「山に登ってみよう」と思ったきっかけです。
16歳でモンブラン、17歳でキリマンジャロに登っています。ただこの時は「登った」というより「登らせてもらった」と言った方が正しいでしょうね。と言うのも、登山の資金はすべて親父がサポートしてくれたからです。
ところが高校卒業間際になって、「大学生になったら金は自分で工面しろ。冒険は金を集めるところから始まっているんだ。それができなきゃ山は止めろ、人前で山を語るな」と言われましてね。そこまで言われたら、以前ならカチンときたと思いますが、「冒険は金を集めるところから始まっている」という言葉が、なぜかストンと僕の中で落ちたんです。確かにそれはそうだよなと。
そこで親父に「分かった。じゃあ、自分でやる。ただ、どうやって金を集めたらいいか教えてくれ」と聞いたら、なんと親父は「俺は役人だから分からない。やったことがない。だから、自分で考えろ」って言うんですよ。呆れましたし途方に暮れましたね(笑)。そんなやりとりを聞いていた就活中の兄貴が、「じゃあ、この中の企業に頼み込んで、資金を出してもらえ」と言って『会社四季報』をくれたんです。それからは四季報とにらめっこですよ。どんな会社があるのかと、ひたすらそれをめくっていましたね。
今みたいにメールで問い合わせができる時代じゃありませんから片っ端から電話しました。ほとんどは相手にしてもらえませんでしたが、それでも中には会ってくれる会社もたまにあって、ワープロで『7大陸最高峰、最年少への道』みたいな、自分の思いを満載した企画書をつくって、それを見せながら壮大な計画を説明しました。でも、どれだけ思いを込めて説明しても上手くいかないんですよ。何が駄目なんだろうって、ずっと悩んでいました。
ところが、ある会社に呼ばれていつものように僕の山に対する情熱を語った時、駄目な理由がはっきりしました。こう言われたんです。「君の山登りっていうのは、お遊びだよね。なぜ我々が、君のお遊びにお金を出さなきゃなんないの?」って。そんなことを聞かれても困りますよね。当然、ちゃんとした返事ができずにタジタジしていたら、「君はまだ学生だから分かってないかも知れないけど、我々は会社に利益をもたらすために毎日必死で働いているんだよ。その大事な利益の中から、君のお遊びを支援するお金を出せると思うかい?」と。ハッとしましたね。そりゃそうだ、この人の言う通りだなと。
大人が怒ることには、意味があるんですよ。あの時の僕はしょせん19歳の子どもです。適当に話を聞いて、検討するって言って帰らせれば終わることじゃないですか。ところが彼はちゃんと怒ってくれたんです。というか、真正面から向き合って厳しい言葉で指摘してくれたわけです。そこにはきっと意味があるんだろうと思い、それから僕は「あの人は何を伝えたかったんだろう」ってしばらく考えましたね。
考え抜いて出た答えは、例えば僕に知名度があって、僕が冒険することが世間で話題になって、撮られた写真に会社のロゴマークのワッペンが写る、ということなら話は別だろうけど、無名の学生がいくら情熱的に7大陸最高峰制覇を語っても世の中の人は誰も相手にしない。だからこそ、会社が僕の冒険を応援したくなるような、要は、冒険する側とサポートする側がカチッとかみ合うようなストーリーを描いて持って行かなければ、大人は説得できないんだと。そんなことを彼は伝えたかったんだろうと思ったわけです。
それまでの僕は、相手の会社をちゃんと調べずに、山に向かう自分の情熱ばかり語っていたんです。いわば、勢いだけのセールスマンみたいなものです。勢いは大事ですが準備をしていなければ空回りするだけです。これでは駄目だと思ってそれからは、「僕の冒険ストーリーと合致するような企業はどこか」を真剣に考えました。そこでまずクローズアップされてきたのが登山には欠かせない腕時計です。
ホームページなどありませんから情報は足で集めました。いろんな量販店の時計売り場に行って販売員と話をしてみると、どうやら冒険用の腕時計開発にはセイコーが力を入れているらしいということが分かったんです。南極越冬隊が使った腕時計しかり、植村直己さんが1970年にエベレストに登ったときも腕時計はセイコーだったと販売員から教わりました。まさにそこには、僕の夢と合致する企業のストーリーがあったんです。そこで僕は、登山に求められる腕時計の性能提案を自分なりにまとめてセイコーに提案したんです。
僕は7大陸最高峰制覇を目指している。ただヒマラヤに行くためには、幾つか改良した方がいい部分がある。たとえば、表面がステンレスだと凍傷になる恐れがあるのでセラミックの方がいい。標高が高くなると体がむくむのでベルトを調節できるようにしたらどうか。その他もろもろ。すると、腕時計の開発担当者とマーケティングの人が出てきて、いろいろ話をしてるうちに「面白い!」ということになって、「じゃあ、君のエベレストチャレンジに向けて野口健モデルを作ろう」っていう話になったんです。ですから、僕を最初にサポートしてくれたスポンサー、一番最初に着けたワッペンは『SEIKO』なんです。その後もSONYをはじめ、いろんな企業とストーリーを共有させていただきながら、25歳のときに3度目のチャレンジでエベレスト登頂に成功。夢だった7大陸最高峰登頂を達成することができたんです。
そうした取り組みは今にもつながっているんです。エベレストが終わって、2000年から富士山の清掃登山を始めるわけですけど、ツアーを組むためには旅行業の免許を持った会社とタイアップしなきゃなりません。でも、どこの旅行会社に相談しても「それはツアーとして成立しないよね」と門前払いでした。そりゃそうですよ、だって、ごみ拾いですからね。土日にわざわざ富士山に登って一緒にごみを拾いましょうっていうのは、ツアーとしては成り立たない。で、そこでもやっぱりストーリーを考えたんです。富士山の恩恵を受けながらビジネスをしている会社はどこだ?ってね。
結果的には富士急とタイアップできたわけですが、最初の頃は人が全く集まらなくてね。1回に15人から20人くらいです。社会的にも今ほど環境問題に関心がないし、僕の知名度の問題もあったと思うんですけど、人が来ないっていうのは、やっぱり僕の伝え方が悪かったと思うんです。環境問題の場合、淡々と話してもダメだし熱くなり過ぎてもダメ。あとは上から目線で話すのは一番良くありません。そうした姿勢で話をしていると、時に自己満足になってる場合があるんですね。
結局のところは、なかなか人が注目しないことを、どういうふうに伝えれば関心を持ってくれるかっていうのは、学生時代に企業の人に僕の冒険に興味を持ってもらって、"支援"というアクションを起こしてもらった時と、頭の使い方は同じなんだと気づいたんです。つまり、「やりたい」ということと「やる」ことには決定的な違いがあって、「やる」ためにはお金を得るなり、人の力を借りるなりしなくちゃなりません。そこをしっかり念頭に置いた伝え方をしなければ、共感も支援も得られない。つまり、いかに環境問題であっても、問題意識や理想論だけを伝えるだけではダメなんです。環境問題に取り組むことにワクワクするようなストーリーを描き、それが伝わらなければ人の気持ちは動かせないし、やりたいことがやれません。そこで僕は、「伝える」ということと「伝わる」ことの違いを改めて気づかされたんです。
リーダーは責任感があって当たり前なんですけど、全部自分でやろうとすると失敗しますね。これはどんな仕事でも同じじゃないでしょうか。例えば今、被災地でもいろんな活動をしていますが、最初に「やろう!」と声をあげたのは僕です。ただ、人間はそう強くないので「全部俺がやるんだ」などとは意気込まないで、できないことは誰かにお願いします。そして一旦人に任せたことは、あんまりガタガタ言わない。途中であれこれ言われると振られたほうもモチベーションが下がるので。
あとは、被災現場ってある種の極限状態なので、支援をする方も疲れてきます。そこで僕が暗い顔をすると、まわりも一気に暗くなるんです。それは登山隊も同じです。そこは僕、三浦雄一郎さんからの学びが大きくて、僕が清掃登山でエベレストに行ったときに三浦隊と出会いました。三浦さんが登山隊隊長としてどう振舞うか興味があって見ていたら、なにしろ明るいんです。当然カラダはきついと思うんですよ。でもネガティブはゼロ。三浦さんが明るいから、周りも明るくなります。僕はそれを見ながら、本当に感心しましたね。僕よりも遥かに高齢なのに、本来はベースキャンプにいるだけでもつらいはずなのに、みんなをハッピーにさせるためにリーダーとしてものすごい努力をしてるんだろうなって。
逆に、三浦さんがカリカリして怒鳴っていたら、周りのモチベーションも下がりますよね。「いくら仕事とはいえ、嫌だよ、この人と一緒に行くの」って。エベレストは極限状態の中、2か月間一緒に行動するわけなので、いつでも明るく振舞える気持ちの太さは、リーダーの条件かと思いますね。
なぜ山に登るのか。その理由は、登山家は誰しも明確には答えられないと思うんですよ。仲間と山小屋に集まって酒を飲んでる時に、「俺たちなんでこれをやってるんだ?」って言うと、みんなシーンとなっちゃう。山をやめようかと思った時期もあるんです。リスクがあるので。山をやめても、今はいろんな活動をやっていますし、むしろヒマラヤに行けば2カ月間そこに持っていかれます。ただ、何でしょうね...。
そう、これは答えになっていないかも知れませんが、登山以外の活動が注目を浴びて、講演とかが増えるじゃないですか。すると講演先の人が気を使って新幹線のグリーン車のチケットを送ってくれるんです。最初は「すげえな!」って思ったわけです。乗ったことがないのでね。ところが、グリーン車での移動に慣れてくると、普通の指定席に乗ったとき、「何か違うぞ」ってなるわけです。
本来登山家って、最も環境の厳しい所で生活をしていく職業ですよね。ヒマラヤの硬い氷の中で寝たりするわけじゃないですか。そんな自分であったはずなのに、体が無意識に快適なグリーン車を求めているんですよ(笑)。その時、環境の変化による心のブレって怖いなと思ったんですね。小さいことなんですけど、それが積み重なると15歳の時に考えていた自分の未来とは全く違う方向に進んでしまうような気がするんです。
日常生活って忙しいので、あまり考える時間がなくて、流れていくじゃないですか。でもヒマラヤは過酷な中にも自分と向き合う時間がたっぷりあるわけです。そんな時間の中で、いろんなことがリセットされるし、また気持ちが新鮮になれるわけです。なので、ひょっとすると、それが僕にとっての「山に登り続けてきた理由」なのかも知れませんね。
1973年アメリカ・ボストンで生まれ。父が外交官であったためニューヨーク、サウジアラビアで幼少時代を過ごし、4歳の時にはじめて日本の地を踏む。高校卒業後、亜細亜大学国際関係学部に入学。1999年3度目の挑戦でエベレストの登頂に成功し7大陸最高峰世界最年少登頂記録を25歳で樹立。1999年 エベレスト登頂後、エベレストのゴミ問題を解決するために世界各国の登山家たちと清掃活動に尽力。その後、「シェルパ基金」設立、「マナスル基金」立ち上げ、「センカクモグラを守る会」立ち上げ、「ヒマラヤ大震災基金」立ち上げ、「熊本地震テントプロジェクト」立ち上げなど、災害支援活動も行っている。
編集後記
スタート当初は、まるで人が集まらなかった富士山の清掃登山も今年で18年目を迎えるそうです。活動の目的やそれに託す自分の思いが、どうすれば正しく伝わるかを考え続け、結果、今では年間約7000人以上が清掃登山に参加するようになったそうです。学生時代は自分の冒険のために思いを伝え、そして今は、環境活動のために伝え続けていらっしゃる野口さん。そしてそのどちらも、思いがしっかり伝わって、大きな成果を挙げています。「登山も環境活動もレコードでいえばB面です。目立たないんです。でも、僕がやりたいのはそこにあるのだから、そこに興味を持ってもらえるよう努力するしかないんです」とおっしゃった野口さん。被災地支援で超多忙なスケジュールの中、貴重なお話しを伺うことができました。
■記事公開日:2018/10/23 ■記事取材日: 2018/10/04 *記事内容は取材当日の情報です
▼構成=編集部 ▼文=編集部ライター・吉村高廣 ▼撮影=田尻光久