日本一の難関と言われるテレビ局の"女子アナ"採用試験。
在京キー局の競争率は約1000倍にもなる激戦だそうです。その顔ぶれはというと、
大学のミスコン上がりや、著名人の子女といった特別枠からのエントリーもあって、
毎年、新人アナのお披露目時には話題に事欠くことがありません。
しかしながら、そうした"女子アナ"たちが、プロフェッショナルなアナウンサーとして成長し、
活躍してゆこうと思うならば、「相応の心がまえと努力、覚悟が必要」と吉川さんはおっしゃいます。
今回のリーダーズ・アイは、1977年にアナウンサーとしてTBSに入社され、
その後、TBSの看板キャスターとして、さらには、
アナウンススクールの校長として活躍してこられた吉川美代子さんの登場です。
私が子どもの頃は一家団欒の中心にラジオがありました。朗読番組や音楽番組など、ラジオから語り掛けてくるアナウンサーの声が大好きで、その声を真似して絵本を読んだり、動物のぬいぐるみで人形劇のようなことをやったりして遊んでいました。
小学1年生の時に、先生から指名されて教科書を読んだら、「大きな声でとっても上手に読めましたね」と褒められ、「私もラジオのアナウンサーになれるかな?」と思ったのが、アナウンサーという職業を意識したきっかけです。
そんな淡い思いが輪郭を持った目標に変わったのが中学3年生の時です。東京放送(以下TBS)のラジオ番組で、開局翌年から今なお続いている『こども音楽コンクール』に吹奏楽部が出場することになり、放送部の部長をしていた私が吹奏楽部の紹介をすることになったんです。その時、コンクールの司会を務めていた山本文郎アナウンサーが、「未来の吉川アナウンサーですね」と言って、私にマイクを向けてくださったんです。憧れの本物のアナウンサーと話すことができて、「将来は必ずTBSのアナウンサーになる!」と決心しました。
大学4年生の秋にマスコミ各社の採用試験が一斉に始まり、私は勿論TBSのアナウンサー試験に挑みました。TBSでは9年ぶりに女性アナウンサーを採用するということで会社としても力を入れていて、入社試験は7次までありました。そしてなんと、3次のカメラテストの面接官に山本文郎さんがいらしたんです。とっさに、考えてきた自己紹介をやめ、「こども音楽コンクールで、山本さんから未来の吉川アナウンサーと呼ばれ、絶対アナウンサーになると誓いました。そして今、私がここにいます」と、即興で自己紹介をしました。その後の試験も順調にクリア、「TBSのアナウンサーになる」という夢を叶えることができました。
当時は女性アナウンサーが活躍できる場は多くありませんでした。ラジオもテレビもほとんどは男性アナウンサーのアシスタント。女性アナウンサーがメインで仕事をできたのは、ラジオなら『全国こども電話相談室』、テレビなら天気予報といったところです。もちろん報道の現場で「女性アナウンサーがニュースを読む」などということは"あり得ない"時代です。
アナウンス部に配属されてアナウンス研修を受けている時に、ラジオ報道局の若手や新人記者たちと新人女性アナウンサーとで交流会(飲み会)がおこなわれました。その場で、「ゆくゆくは報道をやりたい」と私が言ったら、若手記者たちがとても喜んで、「選挙特番などがあったら吉川さんにお願い出来るかも知れない」という話で大いに盛り上がりました。
そして翌日、午前中の研修が終わった時に、ラジオ報道局のデスクから電話で呼び出されました。「研修中なので仕事のことではないだろうけど...」と思いながら報道局を訪ね、デスクに挨拶をした途端、「お前は生意気なんだよ!」といきなり怒鳴りつけられたんです。何のことだか意味も分からず驚いていたら、「女のくせに報道をやりたいなんて100年早いんだよ!」と烈火のごとく怒声を浴びせられました。
つまり、右も左も分からない新人のくせに報道をやりたいなんて生意気だ。そもそも女に政治経済のことが分かるはずはない。ということを新人の女性アナウンサーに釘を刺したかったわけです。あの時は男社会の現実を突きつけられて、昨晩の浮かれ気分も何処へやら、「これは前途多難だぞ」と思いましたね。
研修が終わって、実際に仕事が始まって思ったのは、「女性アナウンサーは本当に仕事がない」ということでした。またそれに甘んじて多くの女性アナウンサーは、お喋りしているか、映画の試写会に行っているかで、イメージしていた職場と違っていました。報道局デスクの「女のくせに云々」もいただけませんが、それとはまた違った「女性アナウンサーの内実」が分かって少しショックでした。
入社2年目からは山本文郎さんから引き継いだ『こども音楽コンクール』の司会、ラジオワイドショーのアシスタントやリポーターの仕事でそれなりに充実していましたが、志望していた報道番組から声がかかることはありませんでした。
転機は5年目の秋にやってきました。今度はテレビの報道局長からお呼びがかかり、「来春からTBSで初めて、朝6時からの大型ニュース番組を男女2名のキャスターでスタートさせることになったのですが、吉川さん、やる気はありますか?」というお話しを頂いたのです。
その時は「キターッ!」という感じでしたね。ただし、今やっているラジオの仕事はすぐに降板して、半年間、取材記者として修業することが条件でした。というのも、テレビの報道局でも、「女に報道は無理」といった謂れなき偏見が根強く残っていたため、半年間は取材現場のリアルを知って欲しいということで、女性アナウンサーとしては初めて政治部に所属して国会記者クラブに入りました。
それでも風当たりは強かったですね。舌打ちしながら「女かよ、ハイヒール履いて何しに来たんだよ」と言われるのが日常茶飯事だったので、報道局に入る前は過呼吸になるかと思うくらい緊張しました。思い返しても、あの半年間は本当によく頑張ったと思いますね。国会記者クラブで動きがなければ、警視庁や都庁の記者クラブに顔を出すなど、休むことなくいろんな現場に入り浸っていました。そして半年後、いよいよTBS初の女性キャスターとして『JNNおはようニュース&スポーツ』でデビューしたのです。
半年間の修業を経て、ようやくスタートしたキャスターの仕事でしたが、それでもまだ報道局内での理不尽な風当たりは弱まりませんでした。記者たちの間には「女に俺の原稿は読ませたくない」という雰囲気がありありと感じられて、それをあからさまに口にしたり、態度で示す人すらいました。
今そんなことをしたらCSRの観点から大問題になりますよね。それでなくとも、新番組が始まったばかりで、考えなければならないことが山ほどあるわけです。いろいろなストレスが重なって円形脱毛症や神経性胃炎になってしまいましたが、それでも報道の仕事につけた喜びの方が辛さより勝っていました。
雑音には耳を貸さないようにして、前に進むことだけを考えて頑張って続けていたら、次第に報道局の男性たちも評価してくれるようになりました。そして1984年に看板番組『JNNニュースコープ』のメインキャスターに抜擢されたんです。つくづく努力を続けてよかった、と実感しましたし、自分のことをちゃんと評価してくれる人たちもいるんだ、と安心しました。
よく言われることですが、真面目に取り組んでいれば誰かが見ているはずですし、必ずチャンスは巡ってくるものです。これはどんな仕事でも同じです。ただ肝心なのは、そのチャンスをモノに出来るか否かです。せっかくチャンスが巡ってきても、それに適応できなければ意味がない。力不足は自分の責任です。真面目にやるだけではなく、アンチをも認めさせる人一倍の努力が必要なんです。
そうした観点から昨今の"女子アナ"を見ていると、プロフェッショナルとしてモノ足りなさを感じますね。ここ数年は、タレントになる近道としてアナウンサーを志望する女子が増えています。アナウンサー試験の面接官をしていても、志望動機を聞くと、芸人の誰々さんが好きなのでいつか一緒に仕事をしたいと思いますとか、私の笑顔で日本中を明るくしたいと思いますなどと、真剣に答える志望者が大勢います。つまり、"女子アナ"を目指す人たちは、テレビ局をプロダクションのように考えている人が多いし、また組織の方も、そうした風潮を許容してしまっているようなところがある。私の目にはそのように映りますね。
2001年からTBSを定年退職する2014年まで、『TBSアナウンススクール』の校長を務め、後進の教育に力を注ぎました。私が子どもの頃に感銘を受けた、TBSアナウンサーのアナウンスの技術力、表現力、実況の力といったものを「途切らせてはいけない」という使命感のようなものを感じていましたし、教えるという仕事が思いのほか楽しくて、向いていたとも思います。
後進の教育に力を入れたのはもう1つ理由があります。それは、「先輩たちがこういう教え方をしてくれたら、あんなに苦労はしなかったのに」と、私自身に苦い思い出があったからです。もちろん苦労しなくては得られないこともたくさんありますが、しなくていい苦労は時間のムダです。どのような業態の会社でも、指導的立場にある方は、このあたりのことをしっかり考えることが大事だと思います。
アナウンサーは技術職なので、まず技術を磨かなくてはいけません。そのためには間違っているところを的確に指摘して、それを、どうすれば直せるかというところまで指導できなくてはなりません。例えば、若手のアナウンスを聞いて「それ変だよね」と指摘することくらいは誰でもできます。肝心なのは、おかしな部分を克服するためのアドバイスです。ゴルフがいい例で、優れたレッスンプロは悪い所をピンポイントで指摘して、的確なアドバイスを与え、確実にスイングを修正します。それが良き指導者だと思います。
さらに言うなら、指導した後に、彼ら彼女らの仕事ぶりをきちんと見て評価してあげること。実はここが最も重要なポイントです。視聴率の高い番組に抜擢されれば、注目もされますし、当然ながら評価の対象にもなります。一方、「この番組は〇〇自動車の提供でお送りしました」といった番組の提供クレジットを読むのもアナウンサーの大事な仕事です。しかし、そこに注目する人は少なく、ほとんど評価の対象にもなりません。でもどうでしょう。深刻な内容のドラマの後と、バラエティ番組の後とでは、クレジットの伝え方1つとっても、同じ読み方で良いはずがありません。こうした細かい点にもフォーカスしてきちんと評価してあげることで、若手のモチベーションはまるで違ってくるものなのです。
時代に逆行するようなことを言いますが、私は30代半ばまで有給休暇を取ったことがありません。特に最初の10年間は365日仕事のことしか考えていませんでした。もちろんそれは、私の仕事への向き合い方であって、誰にでも当てはまるモデルではありません。でも、いかにしたらもっといい仕事ができるかを深く考え、その道のプロフェッショナルになるべく、覚悟を持って、妥協なく働く時期があっていいと思います。それは必ず財産になります。
ところが最近は、なんでも働き方改革やハラスメントで一刀両断されてしまいます。厳しく言えば、鳴っている電話を「取りなさい」と注意されてハラスメントを主張するくらいなら「会社員になるなよ」と思います。
効率化といった点においては働き方改革を否定するつもりは全くありませんし、「女のくせに」などという発想や言動は時代錯誤も甚だしいし、とうてい容認されるものではありません。しかしながら、働き方改革もハラスメントも過剰になると、プロフェッショナルがいなくなると私は思っています。
逆説的に言えば、アナウンサーであれ、開発者であれ、起業家であれ、アスリートであれ、一流と言われ突き抜けている人は、時間を忘れて自分の目の前にある課題に取り組んでいるものです。「ほどほどのところでやめておきましょうよ」と言って帰ってゆく人たちとは差ができて当然なのです。
ただし、組織に入ったら誰もがその一員であることを認識すべきです。「自分の成長は組織のため」と考えられる人材が育たなければ、組織は伸びないと思います。そんな人材を育てるためには、管理職が「俺たちの時代はさ...」などと昔話をしていてはダメ。自らパワフルに働き、その姿を見せることが肝心です。
キャスター、アナウンサー、京都産業大学客員教授。1954年、神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部卒。1977年にTBS入社。「ニュースコープ」「ニュースの森」「CBSドキュメント」など多くの報道番組のキャスターとして活躍。また、TBSアナウンススクール校長を12年間務めた。2014年TBSを定年退職し、現在はフリーアナウンサーとして司会業や情報番組のコメンテーターなどを務める傍ら、講演活動で全国を飛び回るなど、幅広く活躍している。
取材後記
ここ数年言われ続けてきた「ダイバーシティ」や「女性の活躍」という流行り言葉の概念を、根底から覆すようなお話しでした。単刀直入に言えば、吉川美代子という日本を代表するキャリアウーマンの中には「女なのに」とか「男だから」というエクスキューズが無いのです。完全な男社会だった1980年代の放送局において、女性が報道局のフロントマンとして仕事をするのは並大抵のことではなかったはずです。
あまりの理不尽さに辞めたいと思ったことはありませんでしたか?と聞いたところ、「ないない。だってフリーになったら記者クラブに入れないし、取材するにしてもTBSの名刺と報道局というバックがあった方が有利ですもん。報道やるなら会社にいなきゃ。」と言って笑った吉川さん。筋金入りの仕事人でした。
■記事公開日:2021/05/24 ■記事取材日: 2021/04/20 *記事内容は取材当日の情報です
▼構成=編集部 ▼文=編集部ライター・吉村高廣 ▼撮影=田尻光久