コンビニより多い歯科クリニック
厚生労働省が2019年におこなった調査によると、全国の歯科クリニックの数は約6万8500か所。それに対してコンビニの数が約5万5600店とされており、歯科クリニックがコンビニよりも遥かに多いという驚きの事実が示された。
ここまで歯科医師が増えた理由は、高度経済成長によって日本人の生活が変化したことが関係している。昭和40年代以降、砂糖を多く含んだ輸入菓子が著しく増えたことに比例して虫歯患者が急増、深刻な歯科医師不足を招いた。以後、国を挙げて歯科医師の育成に取り組んだことで、現在は人口10万人に対して歯科医師の数が80人を超えるまでに膨れ上がり、激しいサバイバル競争が繰り広げられている。かつては「開業すれば必ず儲かる超安定職種」などと言われた"歯科医師神話"も崩れつつあるのが実情だ。
周りを見渡せばライバルばかり。そんな歯科クリニックの財政事情に追い打ちをかけたのが、新型コロナウイルス感染症による患者の通院控えだ。
「私共もコロナ禍でずいぶんといじめられています。患者さんがこんなに減ったのは初めてです」と話すのは、医療法人社団歯周会西堀歯科の西堀雅一院長。歯周病治療のエキスパートである。
西堀歯科は、1971年に東京都渋谷区千駄ヶ谷で開業。「口腔内の健康を守る」という理念のもと、一般歯科診療をはじめとして、特に歯周病治療に力を入れ50年以上患者と向き合ってきた。1980年には六本木3丁目に西堀歯科六本木分院を開業。さらに、2003年には六本木ヒルズ西堀歯科を開業するなど、過当競争の波にさらされる"淘汰の時代"にあってなお、着実な成長を続けてきたエリートクリニックだ。
感染リスクが最も高い歯科医師
2020年3月15日のニューヨークタイムズ紙で、「新型コロナの感染リスクが最も高い職業は歯科医師と歯科衛生士」という記事が掲載された。この報道の直後、日本でも歯科治療を控える患者が激増し、少なからず西堀歯科も打撃を受けることとなった。
「全国的に通院控えが起きていましたが、とりわけ深刻なのは私たちのような都心型クリニックです。六本木ヒルズなどは患者さんのほとんどがビジネスマンです。しかもIT関連企業や外資系企業が多いので、早くからリモートワークが実施されビル全体が閑散としていました。最近でこそ千駄ヶ谷のクリニックはほぼ通常通りの営業に戻りましたが、六本木ヒルズのクリニックについてはまだしばらく時間がかかりそうです」と話す西堀院長。
2020年4月、緊急事態宣言により都心のビジネスエリアや繁華街から人々の姿が消えた。直接的な理由は感染症対策であるとしても、社会の構造変化は、人々の意識や働き方、さらにはビジネスモデルを大きく変えたことは間違いない。またそれは、都心部の歯科クリニックにも想定外の打撃を与え、その影響は今なお続いている。
「しかしながら本来、そうした心配は杞憂なのです」と西堀院長は力説する。
確かに、これまで歯科クリニックから新型コロナのクラスターが確認されたのはわずか1例のみ。この数字は他で起こったクラスターと比較しても、歯科治療で新型コロナに感染する可能性は圧倒的に低いことを示している。その理由について西堀院長は次のように話す。
「新型コロナ以前に、私たち歯科医師は、C型肝炎やHIVなどの感染症とも向き合ってきました。その頃から万全なスタンダードプリコーション(手指の衛生、手袋・マスク・ガウンなどの防護具の着用、呼吸器の衛生管理、使用した機材・器具・機器の適切な取り扱い等)に取り組んできたため、コロナが流行り始めた時もさほど深刻にならず、これまで取り組んできたことをしっかり実践し、同時に、次々と出るコロナ関連の論文から感染予防について多くの知識を得ることで対処するよう努めてきました。その結果、私どものクリニックでコロナ感染が問題視されることは一度もなく、この2年半、診療を続けることができました」。
ところがそんな思惑とは裏腹に、患者の足は遠のくばかり。西堀院長はコロナ禍の中で、都心型クリニックが生き抜くためには「自分たちの強みに磨きをかける以外に手立てはない」と再認識したと言う。
歯周病治療を媒介とした情報提供
西堀歯科の強みとは、取りも直さず歯周病対策だ。近年にわかに取り沙汰される歯周病治療だが、西堀歯科では歯周病がまだ一般化されていない半世紀前から先代の院長によって手掛けられてきた。現在のクリニックには10名の歯科医師が在籍しており、うち8名が歯周病専門医としての肩書を持っている。
歯周病治療は歯科医師であれば誰でもおこなうことができるが、適切に診断するのは難しい。特に重度歯周病の治療の場合は、包括的な視野をもって口内全体の治療計画を練ることが肝心だ。また何より、歯周病は治療期間が長いため、患者と向き合う医師の人間性も大いに問われるという。
「日進月歩の医療技術に対して、常に新たな知識を取り入れようと貪欲に学んでいく姿勢はもとより、患者さんから信頼される歯科医師としてのスキルアップが必須です。その一例が、歯周病治療について正しく情報提供ができる専門知識を持ち、患者さんとより良いコミュニケーションを築ける人間力なのです」。
昨今は『歯周病』というワードを頻繁に目にするようになったが、それがどんな病気なのかについては多くの人が正しく理解していない。それはこれまで、歯科医師が患者に対して丁寧な情報提供を怠ってきたことに責任があるのは否めない。これからは患者に寄り添った向き合い方が必要だ。そのことに西堀院長はコロナ禍で改めて思い至り、現在はその意識共有をクリニック全体でおこなっている。
「例えば、糖尿病の患者さんが、歯周疾患を患うと歯周病の進行が早くなります。つまり、糖尿病は歯周病を悪くする大きなリスクです。でも逆のことも言えるのです。歯周病が治療されると糖尿病に良い影響を与えるという論文が多数出ています。エビデンス(証拠や裏付け)としてはまだ十分に強くはないのですが、かなり高い相関が示されています。口腔内の衛生を保つことで、悩んでいる病気が良くなる可能性を伝えることは、患者さんにとっては大きな希望になるはずですし、説得力があります」。
極端なことを言えば、口の中を見れば患者の健康状態や、或いは、これから起こり得る病気の予見が出来るようになるかも知れない。そこまで行かなくても、歯周病治療をおこなった歯科クリニックで、エビデンスに基づいた情報が患者に正しくもたらされれば、病気の多くを抑制できる可能性もある。歯周病治療を媒介として、様々な情報が患者に伝わる仕組みづくりに、今、西堀歯科では積極的に取り組んでいる。
いかなる業種であっても、先代の事業を継いで、それまで懇意にしてくれた顧客やクライアントを引き継いでいる限り、なかなかそうした視点をもつことは難しい。そこに視野が及んだのは、現役の歯科医師であり経営者でもある西堀院長の先見性であろうし、"コロナの功罪"と言うことができるかも知れない。
患者から選ばれる歯科医師の条件
エビデンスに裏付けられた最新の知識を蓄えて患者に正しく伝えること。これが優れた医師の基本スキルだ。その上で"いかに伝えるか"が、選ばれる歯科医師とそうでない医師の分かれ目になると西堀院長は言う。それは話術に長けているか否かではなく、会話の中で患者の求めていることを察知して、その思いを尊重したアドバイスが出来ること。これが"選ばれる歯科医の条件"になるのだと。
「体調が思わしくないので、通院がしんどい......とおっしゃる患者さんに対して、歯を残したいなら頑張って通ってもらわないと......などと居丈高な物言いをするのは的外れです。いくらエビデンスがある治療であっても、そうした医師には患者さんは心を開いてくれません。最初に100点満点の治療計画をお渡ししてその通りに行くかと言えば、そんなことはありません。二人三脚で長いお付き合いをしながら、患者さんの価値観を尊重した向き合い方をしていくことが、満足して頂ける治療に繋がると思っています」。
ビジネスで"顧客の要望を満たすこと"は最も重要なミッションと言われる。そのために、相手の立場に立って考えるということは、相手を喜ばせたいという思いやりの気持ちでもある。ビジネスにおける人間関係同様、或いはそれ以上に、患者と歯科医師の関係はデリケートで難しいと西堀院長は言う。
これまで、歯科クリニックの増収対策は"新規患者"をどれだけ獲得するかが主眼に置かれてきた。それを実現するために、広告によるクリニックの認知度向上、施設や医療機器のリニューアルといったイメージアップ、医師による書籍出版など、様々な施策がおこなわれてきた。しかしながら、歯科医師の過剰供給とコロナにより、クリニック格差が広がっている現状において、患者から選ばれている歯科医師・歯科クリニックが実践するマーケティング戦略には、"既存患者の満足度向上"に繋がる施策が必ずある。西堀歯科は、まさしくそのフロントランナーともいうべきクリニックなのだ。
その話にエビデンスはあるのか
医療の進歩には目覚ましいものがある。これからも医療技術は向上するだろうし、新薬についての知識も蓄えていかなくてはならない。医師という仕事は、一人ひとりが絶え間なく学び、研鑽しなければならないわけだが、クリニックの方針を共有できていることも、医療スタッフとして働く以上極めて大事な要素になると西堀院長は言う。
「例えば、患者さんが衛生士に質問をしたとしましょう。そこで、衛生士が答えた内容と、担当医師の説明に齟齬があれば患者さんは混乱します。しかしながら、本来的にはそんなことはあり得ないはずなのです。なぜなら標準治療というものがあるからです。標準治療とは全て論文をベースにして統計的にエビデンスが認められた治療方法です。したがって、皆が標準治療に則った回答をしていれば齟齬は生まれません。にもかかわらず、稀にそうしたことが起きる。これはもう、クリニックにおける指導不足、或いは、当事者の勉強不足としか言いようがありません。人材の成長は、そのままクリニックの評価に繋がります」。
インタビューの中で西堀院長は、「その話にエビデンスはあるのか」ということを端々で強調された。昨今は健康意識の高まりから、数多くの健康情報を自分で入手できるようになった。ダイエットや視力改善が期待できる、長生きの秘訣は自律神経にある......etc。しかしながら多くの場合、それらの情報は統計をベースとしたエビデンスの有無が分からない。少なくとも、医療人たるものは、そうした曖昧さを患者に示してはならないと釘をさす。
「医療に限ったことではありません。エビデンスの大切さについては、きっと皆さんのビジネスでも同じようなことがあるのかも知れません。医療であれ、健康であれ、ビジネスであれ、数字や統計に基づいた根拠がなければ人にはなかなか納得してもらえないのではないでしょうか。私はそう思います」。
西堀院長が問いかける「エビデンス=根拠の有無」は、どのような仕事をする上でも肝に銘じなくてはならないキーワードと言えるだろう。
■記事公開日:2022/07/27 ■記事取材日: 2022/07/08 *記事内容は取材当日の情報です
▼構成=編集部 ▼文=編集部ライター・吉村高廣 ▼撮影=田尻光久